多分花鳥風月→金田一、コナン的読み物ページ→小説置き場→名前(「高遠遙一の回顧録」より)
意外にも風はさわやかに吹き抜けていった。自分の後ろに佇む建物が如何に空気の濁っていた
ところであったのか、振り返らなくとも容易に理解できる。
夏の太陽光を受けて足元の草花は、命を謳歌するかのように熱気をはらんだ匂いを立ち上らせていた。
罪状を否認することなく起訴に至れば、比較的監視の緩い拘置所に留め置かれる。
犯行を否定する理由などなかった。むしろその計画性は語ってこそ芸術性を帯びる。彼にとって
犯罪とはそういう価値観を元に定義されていた。
高遠遙一。
穏やかでいて人を食った笑顔の下に虎視耽々と獲物を狙う牙を隠し持つ、犯罪芸術家。
適度に手入れされた中庭は静まり返り、彼以外の人影はない。目の前にぐるりと広がる高い塀の
向こうからは、ごく普通に生活している人間達の立てる物音が聞こえてくる。午後の日差しはやや熱を
持って彼の頬に触れたが、それほど不愉快でもない。ただ、彼の逃走を見咎めるかのように騒ぎ立てる
セミ達は、いささか不協和音であったが。
不意に突風が吹いて、空に布が舞いあがった。風のいたずらに踊るそれは、良く見れば薄いブルーの
服である。どうやらたった今まで彼が身にまとっていた服のようだ。
高遠は――宅配便業者の服を身につけていた。どこからそれを調達したのかは分からない。帽子を
ズボンのポケットから取り出して被り、軍手を嵌めると、平然と裏門を開けて外へ出た。裏門にかかる
鍵などこの男にとっては、幼児向けの玩具程度でしかないらしい。
後一歩。重心を、踏み出した右足にかけて左足を上げればもう外という段階で、高遠は振り返った。
「……例え雑誌でも、マジシャンに渡すべきではありませんでしたね。Good-luck,
善良なる諸君。
……Good-bye, マネージャー高遠遙一」
聞く者が聞けばそれは、何かしら決意の言葉として受け止めただろう。
犯罪芸術家は偽りの仮面を遂に脱ぎ捨てたのだ。
独房の中には近宮玲子から送られたはずのトリックノートが置き去られていた。そう、マジシャンと
しての将来を最愛の息子に嘱望した証。自ら裏切者へ下す炎の鉄槌を気付かせるパスポート。
彼が表舞台に立つ為の、何よりも有力なサポートとなったはずのそれを残すことによって高遠遙一は
宣言したのである。
犯罪は華麗なるマジックショーに成り得る、と。
それは唯一残っていた家族愛への決別だったのかもしれない。
彼以外、真実を知る者はいない。
「やあ幽月さん。いかがでしたか、ピエロ左近寺最後のショーは」
「驚いたわ。貴方の言った通りよ」
小型貨物車の中で手にした携帯電話からは、少し興奮したような幽月の声が飛び込んできた。
彼女の声だけでなく、周囲のざわめきも聞こえてくるところを見ると「不幸な事故」が勃発してからそう
時間は経っていないのだろう。
「そちらもうまくいったようね」
「ええ、予定通りに。では後程またお会いしましょう」
「じゃ」
携帯を切り胸ポケットへ収めると、何事もなかったかのように車は走り出した。
少しして建物からサイレンが鳴り響き、慌てふためいた所員達が表へも飛び出してきたが、凡庸な
人間達に彼の行方など分かろうはずもなかった。
目撃者の証言から十キロ離れた某駅に乗り捨てられた宅配用貨物車と、その中で縛り上げられた
配達員が発見されるのはそれからさらに数時間後のことである。
「微力ながらお役に立てて光栄だわ」
恐らくは一流の設計士によって計算され尽くされているであろう間接照明は、テーブル上のワイングラス
ばかりか、その中の液体まで宝石のように煌かせていた。
ワインにしては珍しいイタリア語で書かれたラベルを覗き見ると、「Lacryma
Christi del Vesuvio」とある。
「いえ、助かりましたよ。いくら私でも仕掛けがなくてはマジックは出来ませんからね」
「あら、そうかしら」
幽月は首をかしげて覗き込むようにした。いたずらぽく目が輝いている。
「失礼。このワインを一本持ち帰りたいのですが」
指を軽く鳴らしてギャルソンを呼ぶと高遠はそう言った。
ギャルソンはすぐにうなずいて奥へ歩いて行った。幽月はそれを見送っていたが、
「このワインには何か思い入れでも? ワインをティスティングなしで選んだ人は初めて見たわ」
「……紀元前、ポンペイの都がヴェスヴィオス山の大噴火で滅びたことは御存知ですか?」
「え? ええ」
幽月は突然高遠が持ち出した話題の関連性が理解できず、きょとんとしてそう答えた。
「お待たせしました」
丁寧に梱包された包みが差し出された。短時間で持ってきたからにはこういった申し出には慣れている
のだろう。すっきりと、ボトルの形を損なわない控えめな包装。
高遠は礼を言ってそれを受け取ると、
「ここのワインは保管状態が良い様だね。種類も豊富だ。気に入りましたよ」
「ありがとうございます。今後もどうぞご贔屓に」
洗練された動作で頭を下げると、ギャルソンは足早に立ち去った。
「失礼。話が途中でしたね。その火山の噴火を嘆いたキリストの流した涙が滴り落ちて、ぶどうの樹が
茂ったという伝説があるのですよ。それがヴェスヴィオス山麓に広がるぶどう畑の由来であり、そこ
から作られるこのワインは『Lacryma Christi』つまり、キリストの涙と名付けられたわけです。記念日に
相応しいものでしょう?」
数々の奇跡を生み出す指先がグラスの足を持ち上げる。美しい夕焼けのような液体が、照明の
角度が変わり一瞬血の色のように妖しく光った。
「成る程。プロテスタントにはもってこいね」
高遠は答えず笑い声を洩らしただけだった。幽月もそう言っておきながら、この男が果たして神を
敬う気持ちなど一片でも持ち合わせているだろうかと思った。
人の命を奪うことを露ほども悔いていないこの男が。
敬虔な気持ちがあれば彼を世に解き放ったこの日になど、このワインを選びはしないだろう。
不意に幽月の背中を悪寒が走りぬけた。
この世に人間の崇める神は星の数ほどいる。だが、その中に彼が信仰するに足るほどの存在は
あるのか。彼の中に良心をよみがえらせるものは。
――馬鹿馬鹿しい。
宗教論を持ち出しかけた自分を、人知れず幽月は笑った。自分とて日常敬うものはないというのに。
「じゃ、そろそろ時間だから行くわね。機会があればまたお会いしましょう。傀儡師さん」
ふと思い出された罪悪感という名の懐かしい感情を振り払うかのように、わざと明るい調子でそう
言うと幽月は先に立ちあがった。
これから仕事に取り掛からねばならない。あの気難しい作家、山之内恒聖の作品に付ける挿し絵を
数枚依頼されていた。恐らく何回かは気に入らないと突き返されるだろう。
「Good-luck, 幽月さん。またいつか……」
背中に届いた声はどこか楽しそうだった。
「再会があだになりましたね……」
墓前には枯れかけた花束がぽつんとひとつ、無造作に置かれている。それは生前幽月を取り巻く
人間関係がいかなものであったか、推し量るには十分であった。
紅い薔薇の花束は、日本式の墓標には少し不釣り合いに見えた。幽月が見たならば黙って肩を
すくめただろう。
もっとも、その隣りに置かれたワインに至っては複雑な表情を浮かべて苦笑したかも知れないが。
「Possa riposare in pace.(安らかに眠れ)」
産地の母国語にのっとりそう告げると、それきり興味を失ったように彼は歩き出した。
「また届いたんだってね」
某病院のナースステーション。
巡回から戻ってきた看護婦を捕まえて、世間話に花が咲いているようだ。
「誰か知らないけど、美談よねぇー」
机にひじを突き、書類を書いていた手を止め、ある看護婦はため息をついた。周囲も賛同の意を
表して首を縦に振る。
かなり長い間植物状態にある患者の、唯一の身内が死亡したという知らせと共にそのニュースは
飛び込んできた。
即ち、滞納されていた莫大な治療費と共に、恐らくその患者が一生入院するに足るほどの金額を
一括で支払ってみせた現代版『足長おじさん』の出現。
ここ数日お世辞にも面白いとは言えない、芸能人のフォーカスネタを苦労して放送していたワイドショーは、
こぞってこの美談を取り上げた。が、該当者は現れず、売名目的の人間が名乗りをあげては事実との
相違点を指摘され、恥をかきつつ消えていくということを繰り返した。
『足長おじさん』は寄付だけではなく、一週間に一回、一輪の薔薇の花をこれもまたかなりの額を
前払いされた花屋によって病室へ届けさせていたからであった。
結局何一つ不明のまま時の経過に押し流されていき、いつしかこの奇跡はその病院の関係者
のみが語り継いでいくだけとなった。
もちろんその奇特な人間も、日の下にさらされることを善しとしなかっただろう。
高遠遙一はそういう人間なのだから。
<了>
多分花鳥風月→金田一、コナン的読み物ページ→小説置き場→名前(「高遠遙一の回顧録」より)