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「明日は気温も高く、猛暑の一日となるでしょう」
隅におかれた小さなテレビが、今日までのジメジメした天気との決別を告げた。部屋の
向かい側にある洗面所からは、ドアを開け放しているおかげで誰かが歯を磨いている音が
聞こえてくる。
小さなリュックサックを広げ、タオルと地図をつめて平にならす。――少し考えてその上に
もう一枚タオルを入れた。
本当なら上に朝、弁当を入れようと思ったのだが明日は猛暑になると言っている。現地で
調達するようにした方が、食中毒の危険性もあるまい。だったら平にしておく必要はない。
明日突っ込むものといったら今冷凍庫で凍らせている、お茶入りのペットボトルぐらいだから。
食中毒。
フフッと鼻で笑った。
詰めた物を確認して止め具をはめると、立ち上がった。
暑いなぁ……。
もう汗をふき取る役割を果たさなくなったハンカチでゴシゴシと額をぬぐい、宮田弘之は公園の
ベンチに腰を下ろした。
こんな田舎に、営業に来るんじゃなかった。
小一時間、そのことばかり頭の中を駆け巡っている。
客を新規開拓してこいと言われ、仕方なく適当に車を走らせていたら年度末であちらこちら
工事しており、回り道を繰り返すうちに戻り道が分からなくなった。しかもエアコンをガンガンに
効かせついでに音楽もかけていたら、そろそろガタのきかけていたエンジンがいかれた。
オーバーヒートだ。
どうにもならないので道に寄せて止め、JAFでも呼ぼうとしたら携帯電話は圏外の表示が
出ていた。ついてない時はついてないものである。しかも車一台通らない。
数十分歩いて見つけた、県道何号線という表示を見つけて手に持っていた道路地図から
現在位置は分かったが、それにしても帰る手段を見つけなければならない。携帯電話普及の
おかげで公衆電話の撤去作業は、こんな田舎にも及んでいるようであった。休憩しようにも
自販機一つない。
そんな時やっと、公園というのは名ばかりの空き地のような一角を見つけたのだ。
手入れもされていないらしくベンチの周りは草ぼうぼう、木も鬱蒼と生い茂っていたが、逆に今は
その日陰がありがたい。
落ち着いてきて辺りを見回すと、水のみ場が目に入った。これだけの場所だ、枯れ葉やら
虫の死骸やらに埋もれていたが今は構っていられない。
宮田はできるだけ触らないようにそれらを取り除くと蛇口をひねった。
数秒後の幸せを想像した。
――水は、出なかった。
どれだけ蛇口を回してみても、逆にひねってみても、一滴も喉を潤してはくれなかった。
「畜生!」
腹立ちまぎれに柱を蹴飛ばしてベンチに戻る。
公園の入り口に、子供が一人立っていた。マウンテンバイクのハンドルを持ったまま、きょとんと
した顔でこちらを見ている。
「そこ、水出ないよ。ずっと前から止まってる」
小学生だろうか、男の子はそう言って帽子を取ると入り口の杭によりかかるようにして、
背負っていたリュックサックを下ろした。
彼はその中からペットボトルを取り出しジーッと中身を見た後数回振った。
思わず宮田の喉がごくりと鳴った。
「ボク、それ一口くれないかな」
宮田は声をかけていた。ボトルのキャップに手をかけていた少年がこちらを見た。
「……この道、ずっといけば自販機があるけど」
「おじさん、疲れちゃってもう歩けないんだよ。一口でいいから」
「僕、本当はここで休憩する予定なかったんだけど。ホントはこの先の郵便局で友達と
待ち合わせしてるから」
「ほんのちょっとでいいんだよ。頼むよ。ああ、お小遣いあげる」
宮田は急いで財布を取り出した。千円札を出して見せると、少年がちょっと考え込むような
顔になった。
ジュース一口に千円は痛いが、それでもこの炎天下の地獄から逃れられるものなら安い
ように思えた。
「本当に一口だけだよ……。僕のお小遣いで買ったんだから」
「ありがとう」
少年の手からそれを受け取り、一口飲んだ。一口、というにはちょっと多い量だったがまあ
事情を考えれば仕方がないだろう。
もう一度お礼を言ってボトルの口を拭き、宮田はそれを少年に返した。
立ち上がろうとして、めまいを覚えた。
猛暑のせいだろうか、予想以上に体がいうことをきかなくなっている。
――一度、医者に行った方がいいかな。
そんなことを考えた。
突然胃の辺りから湧き上がる嘔吐感に宮田は胸を押さえた。腰を浮かせかけたところだったが、
膝に力が入らずがくりと前のめりになり、地面に手をついた。
視界がゆれる。
世界中の音が遠ざかったかのようになった。
激しい痛みが体中を駆け巡る頃にはもう、地面に頭を打ちつけても気にならなくなっていた……。
「近藤さん、電話よ」
「すみません」
美奈子はジロリとこちらを睨んでくる上司に軽く頭を下げて、受話器を差し出してきた同僚に
礼を言いそれを手にとった。仕事中の私用電話はいろいろとやかましいのだ。
「お電話代わりました」
「――こちら、田所警察署といいますが」
「え?」
聞き返す。警察といっただろうか。警察?
仕事中に警察から電話がかかって来る。
ドラマでよくあるシーンだ。
とすれば後に来るセリフは決まっている。
「夫か子供に何か――」
「落ち着いて下さい。少し、お話をお伺いしたいことがあるのですが、今晩お時間いただけ
ないでしょうか。私は田所警察署刑事課の南と申します」
「はい、わかりました」
受話器を置く。
鼓動が激しくなっているのがわかった。
少なくとも家族に何かあったわけではない。しかし、話を聞きたいことがあるという。
「近藤さん、どうしたの? 大丈夫?」
同僚の言葉がきっかけのように、美奈子はその場に座り込んでしまった。
「これなんですがねぇ……」
南という刑事が差し出した紙の束を、美奈子はしばらく黙って見つめていた。
メールを印刷したらしいそれは、どうみても自分の息子が書いたものであった。
「今の旦那さん、あなたとは再婚だそうですね。当然、息子さんとも血がつながってない。
まあ、気が合わなくて虐待というのはよくあることですが……」
南の隣に座っている、クリーム色のスーツを着た女性――確か児童相談所の沖田と
名乗った――はそう言って、紅茶の入ったカップを口に運んだ。
「それにしても、殺される、助けてというのは尋常ではないと思います」
メールには、児童相談所に宛てた、血のつながらない息子の悲痛な叫びが書き綴られていた。
自分に虐待を受けて殺されそうだ。父親は気づいていない、ほかに相談するあてもない、と。
「それでですねぇ、今日子供さん、学校が休みで友達と遊びに行く予定だったとか。
――ペットボトルのお茶はあなたが用意されたんですか?」
突然変わった話題に面食らいながらも、美奈子はうなずいた。
「ええ。今日は暑くなるから凍らせて欲しいと息子……雄介が言ったものですから」
「それは、買ってきたペットボトルで?」
「もちろんです」
南はふむ……と顎に手をやり、戸惑いの表情を隠せないでいる美奈子を見上げるようにして、
「あれねぇ、飲んだ男が死にましたよ」
世間話の延長のような話し方に最初美奈子は言われた意味がわからなかった。
ペットボトルは息子に持たせたものだ。それで何故他人が死ぬのだろうか。
「たまたま公園でね、息子さんあんまり暑いもんで休憩したらしいんですわ。そうしたらそこで
サラリーマンに声をかけられましてね、それを一口欲しいと。お小遣いをもらって息子さんは
それをあげたそうですが」
それを一口飲むなり男は苦しんで死んだ、雄介が自転車で引き返して近くを歩いていた
農夫に声をかけたらしい、そんなことを南が言うのを、美奈子は他人事のように聞いていた。
「雄介君ですか、確認してみたところそのペットボトルは一度開いた形跡があったようです。
……今日は旦那さん出張だそうですね。随分とタイミングがいいんじゃありませんか?」
沖田のあまりにも失礼な物言いに反論する気にもなれなかった。
「とりあえず、奥さんには一度署の方に来ていただくことになりますな」
携帯電話を取り出しながら南が立ち上がった。
「雄介、それ、俺にも一口くれよ」
真黒に日焼けした丸顔の少年が、雄介に向かって手を出した。
「いいけど」
が、少年はビクリとしたように手を引っ込めた。
雄介は笑って、
「大丈夫。これはさっきコンビニで買ったから。開いてもないし、何も入れてない」
ほら、とふたをとって自分が先に一口飲んでみせた。
少年は安心したようにそれを受け取り、中身を口に含んだ。目の前に広がるビルの合間に、
太陽が窮屈そうに沈んでいく。
丘の上にあるこの空き地は、昼間は子供たちの遊び場になっているが、今はもう日も
落ちかけているせいか、人の気配がない。
「おばさん、結局どうなんの?」
少年はバッグからゲーム機を取り出して電源を入れると、そのついでとも言うように雄介に
声をかけた。
「さぁ……証拠はないから罪になるかどうか。でもまあ、二度と顔を見ないで済むね」
「そっか。おばさん、俺には結構優しかったんだけどな」
「外面がいいだけ。そりゃ面と向かっていじめはしなかったけど、何度言っても俺の部屋に勝手に
入るし、変な雑誌読んでりゃ捨てるし。うざいだけだよああいう大人は。子供のクセにって、
お前が言うほど子供じゃないよってずっと思ってた」
少年はゲームの手を止め、雄介の方を見た。
少しずつ、夜の帳が下りてこようとしている。あと三十分としないうちに真っ暗になるだろう。
そろそろ、家に帰らなくてはならない。
「そりゃ、計画の為にたまたま通りかかった人間を死なせたのは悪いけど、どのみち誰かには
死んでもらわないと現実味がなかったからね。それもあのペットボトルを持ってる、あの日じゃ
ないとダメだった。薬なんてそう手に入るもんじゃないし」
雄介は空になったペットボトルを放った。孤を描いてそれは鉄製のゴミ箱に吸い込まれていった。
「……じゃ、あの時誰にも会わなかったら?」
座っていた柵から立ち上がり、軽くズボンのホコリをはたくと彼は、少年らしさなど微塵も
ない顔でニヤリと笑った。
「そりゃ、君達の誰か、だっただろうね。猛暑で、何か飲みたがってりゃ誰でもいいよ」
<了>
(同人誌「黒」収録作品)
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