多分花鳥風月金田一、コナン的読み物ページ小説置き場オリジナル小説目次→浮気の証拠


!ご注意!
この小説は不快感を生じさせる表現を含んでいます。
ご注意下さい。

 最近、妻の様子がおかしいのに気づいていた。
 少し前まで専業主婦の立場に満足していたはずだったのが、昼間どこかに出かけている後がある。
つい先日も妻が急に用が出来たというので会社を定時で切り上げて幼稚園へ娘を迎えに行ったら、「すみません、最近六時過ぎてからいつもお迎えにこられますよね。あまり度重なると、時間外料金をご請求することになりますので……」と言われた。よく知らなかったのだが、追加料金なしで預かることが出来るのは五時までらしい。
「梶田さんのところは保育園からのお付き合いですから、こちらも大目に見させてもらってたんですが……」
 何と言うことだ。一ヶ月近く、妻が六時を過ぎて迎えに来る状態が続いていた。自分はまったく知らなかった。残業が当たり前のこの不景気では、六時に帰るというのはそれこそ家族に急病人でも出ない限り無理だったからだ。
 一体あいつは何をやってるんだ。
 これが、梶田が妻理恵子に不審を抱いた最初のきっかけだった。


 気をつけて観察してみると、おかしな点がいくつかあった。
 今までは携帯を無造作にテーブルの上においていたりしたのが、自分が家にいる間はエプロンのポケットに入れるか、風呂に入る場合などは電源を落として寝室に置いている。かかってきた時などは必ず相手の名前を確認し、廊下に出て話すようになった。絶対に自分がいるところでは会話しないし、それとなく「誰からだ?」と尋ねても「友達」とごまかされる。
入浴中、隙を見て電源を入れてみたりもしたが、ロックがかかっていて中を見られそうにもなかった。
 
 娘にも聞いてみた。休日散歩に連れ出し、公園のベンチに座ってコンビニで買ったアイスを頬張りながら梶田は、「ママ、最近何か変わったことない?」と切り出した。
 その途端、足をぶらぶらさせながら鼻歌交じりにアイスをかじっていた娘の動きが止まった。
「ママ、しゃべっちゃダメって言ったの。パパには内緒よって。パパのお友達と会ってたの、言っちゃダメだって」
 幼稚園児としてはそれが限界だろう。約束した内容をしゃべってしまったとも知らずに、娘は必死にこちらを見上げていた。
 梶田は引きつった顔を懸命に笑顔に戻しながら、「そうかそうか。じゃあパパもう聞かないよ」と言った。
 重い、鉛の塊を飲み込んだように、胃のあたりから全身に言い表しがたい感情が広がっていくのがわかった。
 友達。誰だ。同僚なら会社の人、というだろう。娘も知っている人間だとすれば、ここ最近自宅に招いた面子に絞られてくる。
 少し前に大学時代の恩師が退官するというので同じゼミに所属していた人間で集ったことがあった。同期の石倉、綾瀬、坂下、栗田と出会い、二次会三次会となってその後終電もなくなったのでうちにつれてきた。
妻もゼミは違うが付き合っていたからよくゼミに顔を出し、彼等とよく遊ぶことはあった。久しぶりの対面に話も弾み、結局東の空が明るくなるまで六人で話し込むことになったのだ。
娘が起きてきて妻は相手をしていたが、自分はそれから眠ってしまったからその後妻が彼等とどういう会話をしたかは知らない。四人も相当に疲れていたから眠ってしまったのだろうが、起きていて妻と自分の知らないところで何かあったという可能性は否定できない。
目が覚めたらとっくに昼過ぎていて、四人はもう帰ったと聞かされた。
そうだ、あの時からだ。
妻の態度に何か不自然さを感じるようになったのは。
 梶田は頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
 この一ケ月――いや、四人が来たのは春だったからもっと前からか、自分は妻に裏切られていた。
 妻とは結婚して十年になる。確かに世間的に見れば、異性からの誘惑にぐらつくようなことがあってもおかしくない時期ではある。しかし何故か心の片隅で、妻だけはそんなことをしないと思っていた。
「パパ? 頭痛いの?」
 梶田の様子に気がついたのだろう、娘が心配そうに覗き込んでいた。
「ああ、ちょっとお仕事で疲れただけだよ、大丈夫」
 娘の口周りについたアイスを、ハンカチを取り出して拭いてやると梶田は立ち上がった。
 ともあれ、もっとはっきりとした確証が欲しい。
 妻が浮気をしていないという証拠が。

 生憎と梶田は、興信所などというものは信用しないたちだった。本当に調べたかどうか分からないような結果報告に何十万も払えるような、そんな裕福な生活でもない。
 インターネットで浮気を見破る方法などというものを検索してみたりして、それとなく妻の行動を探った。
 男よりも女の方が嘘がうまいというのは本当らしく、こうして何かおかしいと意識しなければ、今でもまったく気づかずに普段どおり過ごしていただろう。
 どうやら出かけているのは毎日ではないらしい。ひどく機嫌が良くいつもより口数が多い日とそうでない日がある。
 そして、出かける日は必ず、髪を整え化粧も念入りにし、普段は袖も通さないような服を着る。
 皮肉なことにそれがわかったのは、たまたま梶田自身が妻の姿を見かけたからだった。
 仕事を家に持って帰った翌日、書類の一枚が抜けていたことに気づいて、急ぎのものではなかったが何故か取りに帰ろうと思い立った。家に確認の連絡を入れなかったのは、梶田自身認めたくなかったからかも知れない。
 ひっきりなしに車が行き交う道路を挟んで、念入りに化粧した妻の姿を見かけた。笑顔になって手を振り、立っていた人物に駆け寄った。
 石倉だった。
 二人は自然に、同じ方向に歩き始めた。
 梶田は思わず笑い出していた。
 まるで三流小説のような展開だ。妻の浮気現場を亭主が目撃する。それでカッとなって亭主が追いかけ、殴り合いの喧嘩になる。妻が泣き叫びながら止めて、そこから泥沼の展開に……。
 ただ彼が違っていたのは、今は追いかけて問い詰める気力すら湧かないということだった。
 彼は黙って自宅に戻り、書類を見つけて会社に戻った。

 居間の屑篭から、丸めて捨てられたメモを発見した時は流石に頭に血が上りかけた。『明日午後四時、アークスホテル』という、その文字だけで意味はわかった。
 その日の夕食――いや、時間的には夜食か――は罪滅ぼしのためか、少しばかり豪勢だったように記憶している。接待で遅くなったにも関わらずいつもの愚痴すらもなかった。


――植木鉢が落ちてきた。
 庭で娘のために花壇を作ろうと、草むしりをしていた時だ。
 少なくともベランダに鉢植えはなかった。
 頭の位置ギリギリに落ちて粉々になったそれを見て、上を見上げると、妻が呆けたようにこちらを見ていた。
「天気がよかったから、ちょっと日にあてようと思って。さっき持って上がったの。床だと柵で日が当たらないから」
 確かにベランダの床においていては日は当たらないが、それが言い訳にしか聞こえなかった。
――保険金。
 保険金が今自分にいくらかかっているか確認しなくては。
 一番にそれが浮かんだ自分がむなしかった。

 半月が過ぎた。
 既に妻との間に会話らしいものもなくなっていた。それを妻は、仕事疲れと受け取ったらしく、何かといたわりの言葉をかけてきはするが、それより先には踏み込んでこなかった。
 役所に行って離婚届をもらってきた。
 自分の欄は埋め、いつでも妻に突きつけられるようにしてある。
 いつでも、と言いながら背広の胸ポケットに入れっぱなしにしているのは、心のどこかでまだ現実と向き合えない自分がいるからだった。
 今日こそは、と思いつつ出された食事を黙って平らげ、ベッドに入る自分がいる。

 今朝は朝から妻がそわそわと落ち着きなかった。
 しきりに時計を見ているのに気がついていた。
 それでも梶田は黙って家を出てきた。
 会社につき、いつものように仕事をこなす。
「梶田さん、三番外線。石倉さんという方からです」
 ボールペンの字がゆがんだ。
 動揺を悟られないように同僚に礼を言って、受話器を取り、三番のボタンを押した。
「おお、久しぶりだな、梶田」
 数ヶ月前と変わらない声が聞こえてきた。
「あまり私用で電話をかけるなよ」
「悪い悪い。こないだ携帯落っことしちまってな、メモリーがパァになっちまったんだよ」
 俺の女房に聞けば簡単にわかるんじゃないのか。
 そう皮肉を言いたくなるのを押さえて、梶田は黙って聞いていた。
「それでな、お前ちょっと今晩時間とれないか」
「――どうした、急に」
 ごくりとツバを飲み込んだ。
「大事な話があるんだ。どうだ?」
「そうだな……特に大事な仕事は入ってないから、定時で切り上げることは出来る」
「じゃあ駅前の喫茶店で。俺も仕事を終わらせてから行くから五時半くらいかな」
「何の話だ?」
「それは……ちょっと電話では言えないな。とにかく、会ってからだ」
「わかった」
 事務的にそう返して梶田は受話器を置いた。
 いつの間にか心拍数が上がり、喉がからからになっていた。
 彼はデスクに手をついて息を整えると、書類を眺めている上司のところへと歩いていった。

 この時間なら妻が幼稚園から連れ帰ってきた娘と一緒に、テレビを見ているはずだった。おやつを頬張りながらアニメの主題歌を歌う娘。洗濯物をたたみながら一緒に口ずさむ妻。
 いつだったか娘がこんなことしてるんだよぉ、と話してくれたことがある。
それが今までの現実で、数ヶ月前からは変わっているのだろうと思っていた。
 だから妻が居間で石倉とにこやかに話をしていたとしても、別段驚きもしなかった。
 娘を膝に乗せた石倉は、居間の入り口に立つ梶田を見てぽかんと口をあけた。
 妻もその視線の先を追ってこちらを見、口に手を当てた。


 視界が赤に染まる。
 鬼ごっこで必死に鬼から逃げる子供のように、悲鳴を上げながら妻が逃げる。石倉が抱え込むようにして自分の右手を押さえ込もうとするが、左手を振り回したら吹っ飛んだ。
 娘がひっくり返ったテーブルの影で泣いているが、その声は聞こえなかった。

 何かうるさいと思ったら、肩で息をしている自分の声だった。
 妻も娘も石倉も、とうの昔に動かなくなっていた。それに気づかずずっと両手の包丁を振り下ろし続けていたらしい。
 部屋の中は赤一色で塗りたくったようになっていた。
 自分のスーツもシャツもネクタイもズボンも、喜劇役者の着る奇抜な衣装のように、赤と元の色が混じった変な色合いになっていた。
 赤。
 赤。
 赤。
 落ちついてくると胸にこみ上げる不快感を覚え、梶田はキッチンに向かった。蛇口をうまく回せないことに両手を見て、まだ包丁をきつく握っているのに気づき、苦労して引き剥がした。
 血でぬるむ蛇口を回し、水を出しながら流しに吐いた。
 ふと、何かそぐわない匂いを感じ、梶田は振り返った。
 レンジが作動していた。中に何か入っている。
 流し台横のスペースにはオードブルが置かれラップがかけられている。
 梶田は胸に芽生えた感情を押し殺そうと試みながら、血のついたスーツを脱ぎ洗面所にいった。洗濯機にそれらを投げ込み、顔と両手を洗い、寝室へ行くとシャツにズボンを取り出して身につけた。
 チャイムが鳴った。
 梶田は玄関に向かうとドアを開けた。
 立っていたのは宅配業者だった。一瞬奇妙な顔をしたがすぐに営業用の顔になり、
「お届けものです。印鑑かサインをお願いします」
 梶田は黙ってサインをすると品物を受け取った。
 ドアを閉め鍵をかけるとその場で荷物のガムテープをはがし開ける。
 中から、さらに包装された包みが出てきた。
 無造作にその包装紙を破ろうとして、梶田は目をむいた。
『Father’s day』
 その文字が一面に印刷されていた。
 押し殺そうとした感情がムクムクとわきあがってきた。
 急いで包装紙を破って中身を開ける。
 中からはネクタイとシャツが出てきた。その間にはさんであったカードが落ちた。
『パパ、いつもおしごとごくろうさま えりかとママより』
 間違いなく娘の筆跡だった。

 俺は騙されないぞ。
 そうつぶやいて梶田はそれを投げ捨て、寝室に戻った。
 今更そんなご機嫌とりをしたところで何になる。浮気の後ろめたさをごまかすつもりだっただけだろう。
 何か音が鳴っているのに気づいた。
 居間から聞こえてくる。
 むせ返るような鉄の匂いに辟易しながら梶田は惨劇の現場に戻った。
 妻の携帯だった。
 血にまみれたそれを取り上げ開いた。皮肉なもので今はロックされていなかった。
 到着したらしいメールを読む。
『探していたワインついに発見! パーティには間に合いそうだ。石倉の時間稼ぎの方はうまくいくかねぇ 坂下』
『綾瀬だけど今やっとクソ上司から早退の許可もらった! 俺もそっち行って準備手伝うわ』
『んでまだ梶田のやつ、今日が結婚十年目の記念日だって気がついてないの? あいつの鈍さにはまいったね。こりゃ家に到着するまで気がつかないぞ。 栗田より』

 その場に座り込んだ梶田は、しばらく宙を見上げていた。
 妻と付き合い始めた時のことや、プロポーズをした時のやりとり、娘が生まれた時、廊下で飛び上がって喜んでナースに叱られたこと。
 すべて懐かしく、二度と手に入らない思い出だった。
 やがて嗚咽とともに、彼はおぼつかない足取りでフラフラと外に出て行った。


 赤以外の色が消えうせた部屋。
 割れた窓ガラスの隙間から風が吹き込み、部屋をぐるりと一周した。
 それが通り抜ける際に電話の横に置かれていた書類を吹き飛ばした。
 妻の名前が書かれた離婚届と、妻と石倉の名前が記入された婚姻届がひらりひらりとしばらく宙を舞ってから血だまりの中へ落ちていった。

<了>

(同人誌「黒」収録作品)


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