多分花鳥風月→金田一、コナン的読み物ページ→小説置き場→冬きたりなば春遠からじ(「高遠遙一の回顧録」より)1-3
誰の目にも優劣は明らかであった。明智は最初から笑みを浮かべた表情を崩さず、かたや吉田の
方は青くなったり赤くなったりと、まるで点検中の信号機である。
吉田が黙り込んだのを見て明智は、
「用は済んだかな。申し訳ないが、そろそろ授業が始まるんだ」
と言った。
「そうよ、吉田君。帰ろう」
絵里が腕を引っ張る。このような状況では彼女の方こそ穴があったら入りたい心境だろう。
明智は少し罪悪感を覚えた。目の前の青年を完膚なきまでに言い負かしたことではなく、再びこの
女性に恥をかかせることになった事態に、だ。
非難を含む視線にやっと気がついたのか、吉田は机を乗り越えて降り立つと、
「クロムハーツの創始者、リチャード・スタークって、最初は何やってたか知ってるか?」
「大工だろう? それがどうかしたのかい?」
明智の問いには答えず、吉田は舌打ちと共に机の幕部分を蹴飛ばすと出て行こうとした。
「待ちたまえ」
吉田がビクリと立ち止まったのは、その声の気迫に気おされたためだった。
「君が多岐に渡って豊富な知識を持っていることは分かった。でも、人を貶めたり恥をかかせる目的を
持ってそれを使用しているのなら即刻やめたまえ。君の友人が気の毒だ」
置いてけぼりをくいかけていた絵里がハッと振り向いた。明智がどういう意味でそれを言ったのか、
おそらく理解したのは彼女だけだろう。
吉田は頭だけこちらに向けていたが、そんな彼女の様子に何かを悟ったのか何も言わずに出て
行きかけた。
「それから」
明智は反応を待たず畳み掛けるように言った。
「これは僕からの出題だ。Full in care cow
was to be come me is not. この意味を考えておきたまえ。
いつでも答え合わせに応じよう」
もう吉田は振り向かなかった。
絵里は慌てた風に頭を下げてその後を追った。
期せずして歓声があがったのはそれからすぐのことだ。
「すっ……げェな、お前!」
弘明が明智を小突いた。明智は困った顔になって、
「こんなところでやり返すべきではなかったよ。つい僕もむきになった」
「ねえねえ、明智君。最初に話してたのって何語?」
「スペイン語だけど」
「お前何ヶ国語話せるんだよ!」
明智は腕時計に目をやって、テキストを取り出した。そしてしれっと言った。
「日常会話程度さ。この前雑誌を読んでいてたまたまそれを覚えていたに過ぎない」
「たまたまで会話すんなー!」
拳を握り締めて弘明は叫んだ。
この直後、彼は声をかけるタイミングを狙っていた教授に「開始直後に騒いだ罰」としてレポート
提出を命じられた。
それから数週間の間、東大の非常に狭い範囲内でちょっとした謎解きが流行った。まあ言って
しまえば先日明智と吉田との対決を見かけていた者の間で、なのだが。
当然誰も明智の出した謎を解ける者はなかった。そして当の本人、吉田も何度か解答を思いついては、
鼻息荒く明智のもとへやってきたが一度たりとも彼が首を縦に振ることは無かった。
雨が降ると大抵の人間は憂鬱になる。それが、朝は晴れていて天気予報でも予報士が自信満々に
降水確率〇パーセントとか言っていたりして、つまり傘を持って来ていなかったりしたら最悪である。
たまたま用事があって訪れていた法学部棟入り口の前で、不治の病を嘆く少年のごとく空を見上げて
いた明智は、雨が止むまでに費やされるであろう無駄な時間と適切な場所へ移動する間に濡れる
割合とを比べて、後者を選択することにした。
テキストを雨除け代わりにはしたくないので、手に抱えたまま足早に歩を進める。――と、視界の
端に人影が見えた。何気なく視線を移動すると、建物の陰に隠れるようにして、こちらに背を向けた
見覚えあるシルエットがあった。
「山本さん?」
瞬間的に肩を震わせてその影は振り返った。
「どうしたの? 風邪を引くよ」
頬に張り付いた髪の毛で、自分が思っていたよりも長い間そこにいたのだろうことを理解した。この
時期はまだ、雨が降ると急激に気温は下がる。
少し色の落ちた唇を震わせながら絵里は、
「何でもないです」
と言った。その顔から、雨に濡れただけではないと明智にもわかるほど水滴が滴っていた。
「そう」
明智はちょっと空を見上げて、
「何だか今日は少し着込みすぎたみたいでね。脱いで持ち歩くにしてもちょっと邪魔だし、この前の
迷惑料代わりに預かっていてくれると助かるんだけど」
と言って上着を絵里の肩にかけた。
「え……」
「今度出会った時で構わないから。じゃ」
返事を待たずに明智は駆け出した。
「あ、ありがとう……」
背中を追いかけてきた、消え入りそうな声に少し口元がほころんだ。
地下鉄から自宅に近い駅まで戻り、しばらく喫茶店で時間をつぶしているとようやく小雨になってきた。
雨上がりの街は「清浄」とまではいかないが、それなりに空気も澄んでいるような気がする。空を覆って
いた雨雲も消え、薄い膜のような雲間からのぞく太陽が心なしか暖かい。
少し得をしたような気分で、店を後にした。
多分花鳥風月→金田一、コナン的読み物ページ→小説置き場→冬きたりなば春遠からじ(「高遠遙一の回顧録」より)1-3