多分花鳥風月→金田一、コナン的読み物ページ→小説置き場→冬きたりなば春遠からじ(「高遠遙一の回顧録」より)1-2
「ちょっとー、聞いたわよー明智君。まーた女の子フッたんだってー?」
「人聞きの悪い言い方はやめてくれないか。交際の申し出をお断りしただけだよ」
授業前でややざわついた教室。最前列に明智と佳代、弘明が座っている。もっとも、佳代達は
教授に顔を覚えてもらって少しでも単位をもらおう、という考えあってのことだが。
「いいよなー、俺もたまには困るくらい告白されてみてェ」
「あーら、いい度胸ね。私を目の前にして」
「何だよ。お前だって入学早々明智にコクって振られたんじゃないか。やーい、振られ第一号」
「それに目をつけて『俺で良かったら付き合わないか』って言ったのは誰よ」
クスクスと笑いながら小突きあう二人を横目に、明智は時計に目をやった。まだ開始まで間がある。
本当は時間ギリギリに来る予定だったのだが、レポートが間に合わないかもと必死の形相で自分を
探していた二人に見事見つかってしまい、授業前のこの教室に引きずり込まれたのである。もちろん
これから先一週間分の昼食代はしっかり確保した。
彼らとは、入学以来の付き合いだ。高校での評判を引きずって、明智を羨望と嫉妬の入り混じった
目が見つめる中弘明はこともなげに『あンたがこいつ振った人? やるじゃん』と笑いかけてきたのだ。
その後ろにいた佳代も初めは気まずそうにしていたものの、やがて明智が、自惚れが強すぎる故に
そっけない返事をしたのではないと理解すると自然に打ち解けてきた。二人は文学部志望と、先は
違うものの明智の周囲にいる人種よりは少なくとも付き合いやすい人間だった。そう、あからさまに
官僚志向を自慢する、猜疑心と自尊心で構成された有機物よりは。
ドアの開く音がして、一瞬教室内が静まり返った。しかし、学生の姿を確認すると再びざわめきに
包まれた。短めの茶髪に青色のシャツ、薄いセーターを上着代わりに引っ掛けて、カジュアル
ジーンズという出で立ち。まああまり教授と間違えられることはないだろう。
明智もそれを眺めていたが、その学生が自分に視線を真っ直ぐ据えて近づいてくるに従って、
内心首をかしげた。
ここ最近こんな敵意に満ちた目で睨まれるような事をした覚えがない。(が、彼が知らずに反感を
買うのはよくあることだ。──僻みっぽい作者)
「あんたが明智って人か?」
明智は一度ゆっくりと瞬きをし、肘を突いて組んだ指に顎を乗せると、
「月並みなセリフだけれども言っておこう。人に名を尋ねる時は先に自己紹介をするものだよ」
二人は暫く睨み合うこととなった。何やらただならぬ雰囲気に気づいた周囲が、片方が明智だと
いうことに気づくや隣をつつき、かくして教室は微妙な空気を孕んで静まり返った。
言うまでもなく佳代と弘明は目に好奇の色をたたえて見守っている。
先に笑みを浮かべたのは挑戦者の方だった。ただし本心からとは言いがたい。
「山本絵里を知ってるだろ。俺はその代理人で、吉田一郎ってんだ」
「では僕も名乗ろう。明智健悟だ。山本さんなら知っている。でも僕の心当たりと言ったらもう了承
済みだと思うんだけど」
その時一人の女が顔を真っ赤にして駆け込んできた。全体的なボディラインをすっきりと浮き
立たせた、それでいてシックなグレイのワンピースが良く似合っている。
記憶と照らし合わせる限り、彼女がたった今話題に上った山本絵里である。絵里は吉田の腕を
引っ張り、
「やめてよ、吉田君。もう済んだことなんだから」
「いいや。たかだかまぐれで首席入学したくらいの奴がいい気になって女を振りまくってるなんて、
何様だと思わないのか!?」
思わず佳代が吹き出したが、明智に睨まれあわててそっぽを向いた。その隣で弘明が「あーあ、
また勘違いが来たよ」とため息をついている。
まぐれで首席入学した奴が、ちょっと美形だからといってお高くとまっている。
これが人づてに、振られた女性の噂話を伝え聞いた男の考える明智像である。少しでも言葉を
交わせば誤解だとすぐに気がつくのだが、そんな奴はけしからんと鼻息荒く乗り込んでくる連中は
大抵先入観にとらわれてしまっている。
まぐれではなくて正真正銘実力である。
「それで? 君は僕に何を望むんだい?」
放っておくと教授が来ても無視しかねないので、仕方なく明智は二人に声をかけた。
吉田はニヤリと笑うと机を飛び越え明智の傍らに滑り込んだ。両手を広げてみせると、
「He oido hablar mucho de usted. Estoy encantado
de conocerle.」
きょとんとした顔からしても、およそ佳代と弘明には聞いたこともない発音なのだろう。明智はと
いうと、やれやれというように肩をすくめてこう言った。
「De nada. No es para tanto.」
思いがけない返事にやや驚いた様子を見せたものの、吉田はすぐに余裕の笑みに戻った。
「あんたそういや、高校時代はあだ名がホームズだったんだってな。じゃかなりのミステリーマニア
ってワケだ。偽造文書の鑑定で世界的に有名な一九六七年の事件を知ってるかい?」
「……『ロンドン・サンデータイムズ社』がかのベニート・ムッソリーニの私的な日記の出版を持ち
かけられ、幾人かの専門家が本物と鑑定したけれどそれでも心配でイギリス人の化学者、ジュリアス・
グラントに協力を求めた件だね。その紙にムギワラのパルプが含まれていて、それはイタリアでは
一九三六年以前には製造されていなかったために偽物だと証明されたと記憶してるけど」
周囲は固唾を飲んで対決を見守っている。視線が集中しているのを疎ましく思いながら、明智は
「それで?」と促した。
「数学者バートランド・ラッセルがフレーゲの『算術の基本法則』を研究中に発見したパラドックスは
有名だが、一般向け解説として発表されたパラドックスのタイトルを忘れてしまったんだ。自己
論理的形容詞つまりジロン的形容詞句と、異他論理的形容詞つまりタロン的形容詞句なんだが、
何だったっけな」
後ろから「吉田ァ、自分の専門分野で勝負すんな! 汚ねぇな」とヤジが飛んだ。とすれば、
彼は数学を主に学んでいるようだ。
「ああそれは、グレリングのパラドックスと名づけられていたはずだよ」
こともなく答えた明智にどよめきが上がった。
吉田は微妙に唇の端を引きつらせながら、
「そういえばハミルトン経路問題の解法を生物学分野の方で発表する話があるんだってな」
「DNAコンピューティングのことかい? 二進法の替わりにDNAの四種類の塩基を使って解く方法
だね。少し前正式に発表されてたよ」
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